主に図書館往復で常に複数の本を手持ち移動はつらくなったので、リュックを購入した。
リュックなぞ成人してから数えるくらいしか利用していないので、久しぶりの感覚だったが、驚いた事が1点。
5000円前後は安価の部類だが、充分な耐久性を持った上に、背中の感触が心地よい。最近のリュックは安価な上にここまで配慮と品質が行き届いたものなのか。
もっと早くに購入すれば良かった。
主に図書館往復で常に複数の本を手持ち移動はつらくなったので、リュックを購入した。
リュックなぞ成人してから数えるくらいしか利用していないので、久しぶりの感覚だったが、驚いた事が1点。
5000円前後は安価の部類だが、充分な耐久性を持った上に、背中の感触が心地よい。最近のリュックは安価な上にここまで配慮と品質が行き届いたものなのか。
もっと早くに購入すれば良かった。
自分は、食事に関しては可能な限り安価で済ませたい。
かといって、アレルギは無い癖に胃腸が弱く、安物を食べるとすぐに腹を壊す。
例えばセブンイレブンの弁当やサンドウィッチなどは、味に不満は無いのに腹痛が避けられない。
さて最近、ほぼ毎日の図書館の道中に成城石井があるのに気づいた。
自分は、成城石井の立ち位置がわからないが、高級店とも安物店とも言えない難しい店だと、入店して気づいた。
試しに買ったパンやサラダやサンドウィッチや弁当など、ひとくちでまともな食事だとわかる品質で、当然ながら腹痛も起きなかった。
これまではコンビニは腹痛確定なので回避し、ソバと納豆と卵とヨーグルトだけの生活だったが、成城石井のおかげで、それなりの食事が出来るようになった。
以下が購入してる商品。
以上を、3日くらいにわけて完食してる。
不満というか困っているのが、自分には金額が厳しい。
当然、これが安価になれば、常時体調不良の食事を繰り返す事になる。
眼球が反応する光量を減衰させて視力の回復または安定させる道具、穴あき眼鏡。ピンホール眼鏡。
効果は人それぞれだが、自分の場合は有効だった。
しかし、一般眼鏡と違い小さくて大きい問題がある。
それがフィッティングである。
一般眼鏡はパッドやテンプルなどを曲げて微調整するのが常識。
対してピンホール眼鏡はプラスチックの数百円と安価で購入しやすいが、フィッティング不可能なので、結局は使いづらくなっている。
そこで、5000円程度でフィッティング可能なピンホール眼鏡を作って欲しい。
擬似緘黙で自分の発言は全て文字にしたので、そのために書けない漢字や読めない英単語は死活問題なので、思い切って購入。
6000円程度の商品を購入。広辞苑すら未収録と評判が悪いモデルだったが、基本的には、書けない漢字を調べるといった軽い用途であり、込み入った専門性は求めていなかったので、これくらいで充分で何の不満も無い。
成人して仕事を始めてから、読書を中心とした勉強や知識の獲得は半ば義務ながら、自主的に楽しんで出来るようになった。
しかし、自分の望む機会、場所、姿勢、などと合わないと暗記を出来ない。
その点で、自分にとって図書館は本を借りる場所であって、読む場所ではなかった。
しかし、状況が変化して、自宅が全く集中出来ない場所になってしまい、図書館で読んでみるようにした。
また短期なので実際の恩恵は不明だが、図書館で読む事自体は苦労しなかった。言うなれば、同じ目的を共有した人たちしかいない場所であり、互いの思考を邪魔するような人はいない(現実には皆無ではない。じゃらじゃらと金属音を鳴らして歩いたり、独り言が多い人もいる。それでも、自宅や職場やその他の場所よりは、環境が担保されている)。
全く現実に見合わない不満としては、図書館での行動に飽きたら、すぐにピアノを弾けたら、自分の理想の生活は完成する。
ピアノとピアノ椅子では、読書を中心とした勉強は出来ないし、逆もまたしかり。
文武両道を実現する環境が無い。
図書館で1時間読み(勉強)して、時差なくピアノに切り替えるという環境が欲しい。
歩くのは好きなので、自宅から図書館を往復するのは全く苦痛では無い。
自分はファミコン音楽から育った世代なので、和音数が少ない代償に細かい動きをする旋律やリズム、強引な変拍子などを、むしろ自然なモノとして生きてきた。
そういう意味でリズムには困った事がないが、手拍子でも、拍は取れるが拍子が取れない、という事は何度もある。
極論を言えば、楽譜がなく拍子が不明な曲を聞くと、等速で聴いてる時点では1/1としか感じていない。それを意図して4/4や7/8など数字を決めてから取れば、当然それぞれの拍子として取れるが、未知の曲に対して最初にあるのは1/1である。
そこで、ふと見かけた上記の動画を試して、拍を取りながら拍子を見失わない事に気づいた。
眼から鱗だった。
手を離さない。
これだけで、感覚がここまで変わるとは考えもしなかった。あまりにも自分が愚かで笑ってしまった。
上記の手拍子動画を踏まえて菅野よう子が坂本真綾のギター確認でする手拍子を確認したら、彼女も先述の動画と同じ手拍子、手を離していなかった。
自分が参考にしてる人たちの機微を何も受け取っていなかったと、自分の無能さをまた改めて思い知らされた。
そもそも、長年人間が音量を感じる基準とされたVUは300msの音価を中心としてる。
だから手拍子も接着時間が長いほうが脳が認識しやすいのは当然なのだが、その発想が自分には全く抜け落ちていた。
劣悪な環境で、自分の発言が反映されないという絶望から、擬似緘黙となった。
擬似と書いたのは、まだ診断結果がないのと、自分の声を聞くと気持ち悪くて吐きそうになるが、その無意識か、もう無駄な発言はやめようと決めてからそうなったのか、自分の認識が曖昧だからだ。
発言は出来るのだ。
発言後に気持ち悪くて、場合によって吐いてしまうだけで。
さて、その件とは別に、自分の声に軽い劣等感があったのは事実。
本の音読や、音程を取るための歌声に、自分の声では感動せず暗記を出来無い、という認識はあった。
誰それの声だったらもっと繰り返し聞けるのになあと。
しかし、別に自分を吐くほど気持ち悪い声だとは思っていないし、一般的に酷い声だとも思っていなかった。
あくまで、声優などの天才的商品となる声と比較した上での劣等感に過ぎない。
本来、文章にしろ音楽にしろ暗記の類は音読や発声が有効とされているし、自分もそれに納得してる。
しかし、理想とする声ではないという淡い劣等感だけで、別に自虐の認識など全くなかったのに、擬似緘黙、もう2度と話さないと決めてから、文章や音程の記憶力、脳内での言葉や音程や音色が明瞭になった。
これまで、自分の声で掻き消されていた脳内音色が、発言をやめてから明確になった。
自分の声が、自分の思考や発想を邪魔してるなんて、全く考えもつかなかった。
筆談のほうが頭が回る。
書けない漢字もあるので、発言よりは明らかに速度や感情的な伝達には劣る。
しかし、自分の思考は、脳内で認識してる自覚は、何も話さないほうが明瞭になった。
もともと文章を書くのは好きだったが、もう文章しかないと自覚(覚悟)したら、程度を考えずに何かを書く億劫さが消えた。
面白いのは、話すのを当然としていた時の黙読では覚えられなかった事が、話すのをやめた後の黙読では、覚えやすい、明らかに脳が発火してる感覚がある。
自分はある意味で、会話という常識、自分の声を使うという甘えで、自縄自縛していたのかもしれない。
非常に面白い経験で感動している。
今後、精神科がどういう診断をくだすかは不明だが、この擬似緘黙だけはやめる気がない。
治療する気がない。
これに関しては、無論損害もあるが、自分の思考、脳の発火という点で恩恵しか感じてない。
あくまで自主的に。
自分自身が非社会的である事は自覚していたが、ついに精神科に通う事にした。
親への殺意と、自殺未遂。担当医曰く、自分の場合は自殺未遂ではなく自傷にあてはまるとの事。
6月8日が最悪だった。
30分間、頭を壁に打ち付けて、壁はじんわりと血に染まっていた。
自分自身、自殺願望はあっても、自傷は嫌悪して、リスカの友人などの腕を見ても不快感と吐き気しかしなかったのに、自分の行動に驚いた。
当時の認識としては、目を閉じて頭を打つと、目を閉じた視界に一瞬真っ白なフラッシュが走るのが面白かった。こんな風になるのだな、と半ば実験感覚もあった。
その後、恐らく緘黙になった。
なぜ恐らくなのかは、まだ診断されていなからだ。
自分の声を聞くと吐き気がする。発音せずに、言葉を言うまねごとでクチを動かすだけで吐き気やめまいがする。場合によって他人の声自体が不愉快。
言葉はわかるし、文字も読める。
緘黙前は、文字を読んでも、単語や文章を統合する事が出来ずに、読めるのに記憶や把握が出来なかった。
緘黙後は、文字や音楽に対する反応は、むしろ向上してる気がする。
そういう意味において、環境とは別に、自分は無意識に自分の声を嫌悪していたのだろうか?と今更ながら思考している。
音楽で音程をとる必要があるのに、自分で歌っても脳内の音程が定着しない。これは、自分が音楽的能力が劣悪という可能性もあるが、自分の好きな音色や声色では暗記や定着が可能なので、自虐するほど無能ではなかったと信じたい。と同時に、自分が確信を持てる情報処理は、自分が望む最高品質ではないと無理、という事なのだろう。
緘黙に関しては直したいと思わない。
自分が発言を止める事で、自分の思考や反応がここまで向上するとは思わなかった。
もともと文章を書くのは好きだし、必要性もあり漢字の記憶力や、すぐに書くという行動も明らかに増えた。
担当医は、長期的に治療と訓練で社会性を復帰させる事を目的と話したが、自分はそれには疑問である。
コンビニ店員をやって80歳まで生きるより、自分が尊敬する天才や偉人の一部でも自分のモノにして、最終的にホームレスで野垂れ死ぬほうが、自分には安らかだ。
これが、自分が反社会ではないが非社会である理由。
自分が生まれる前を踏まえ、自分が死んだ後も考えていない人間との雑談が、とにかく不愉快でしょうがない。
看護師からは、哲学的なタイプだと言われたが、そもそも、文字などを中心に、世代を超越した情報を残そうとしてる、残せるのは人間だけなのに、それを前提としていない人間がそもそも人類に含まれるのか?という疑問がある。
医者からは、診断に最低半年は必要と明確な情報をもらったので、ひとまずそれまでは通院する。
いずれ、自分でまずいと思うから病院に行ったのだし。
音楽と脳に関する実験は数多あるが、健常者や自閉症、日常的な会話は不可能だが楽器演奏や歌だけは凄いなど、あらゆる人種や老若男女をまとめて音楽的な行動と脳を計測した実験や本が見当たらない。
例えば、絶対音感は言語と結びついてるが、相対音感は違う、など局所の話はあるが、それは健常者と自閉症で違うのか?
などなど、統合的な研究が見当たらない。
右利きや左利きや男や女や世代に限らず、更に精神疾患や自閉症的な状態も含めて、音楽にまつわる能力や反応や脳の研究をまとめた本はないだろうか?
これは精神科などの診察を受ける前に、自覚として書いている。
何十年にもわたる親の虐待のおかげで、緘黙になった。
/ - 緘黙とは - /
喉は正常で言葉もわかる。ただ自分が何か言うと、自分の声で気持ち悪くなる。発言にともなう胸や頭の振動で気持ち悪くなる。発音せずに、例えば「ありがとう」など言葉のためにクチを動かすだけで吐き気がする。
「あ」など意味を伴わない言葉、ただの発音すら、そのためにクチを動かすと気持ち悪くなる。
この状態になってから、緘黙という概念を知った。
筆談は可能。他人の声は聞こえるし言葉もわかる。自分の発言が発生じゃなく手書きや活字の文字であれば、全く問題がない。
不思議な事に、誰にも何も言わないと決めてから、心身は安定している。
文字や文章や楽譜や音楽(音感)の反応は、むしろこれまでの人生で最高のように感じる。
発言が反映されない環境のためにこうなったが、同時に、恐らく自分の声が自分にとって邪魔だったのだろうと、今はそう認識している。
これまで取れなかった音程、自分で歌うまで脳内で曖昧だった音程が、緘黙になってから脳内音程だけで明確になった。
文字も同様で、10分程度の音読で脳は活発になると聞いて、それをやっていたが、むしろ、音読せずに生涯発言しないと決めた状態のほうが、漢字の記憶力や反応は良くなった。
自分の発言は、全て手書きか活字にすると決めた途端、ものすごく頭が回ってる感覚があり、ある意味で今の自分は好転したとすら感じている。
これがものすごく面白い経験だった。
緘黙以外の問題もあり、客観的、医学的に自分の状態がどうか知りたいので後日診断を受けるが、緘黙に関しては、むしろ治療せずにこのままでいたいと思っている。
日本で音楽を趣味にする、更に言えば身体能力のための習慣にする人間が少ないのは、日本の住宅事情の限界がある。
つまり、騒音と防音。
極論を言えば、もし24時間、好きなだけ楽器演奏や歌唱できれば、脳の記憶力やストレス解消などで、学業的にも社会的にも好転する人間が増えるのではなかろうか?
現在はヘッドフォンがあるので、格差が無いように見えるが、直接耳に接触するヘッドフォンやイヤホンと、高音質スピーカーや壁反響がある音を聞くのは、身体への影響は全く異なり、難聴の増減にも反映される。
また、任意の発声が許されないとなると、音読などの勉強にも差がつく。音楽とは人体能力開発の1つであり、決して娯楽で終わる事ではないし、その延長で、音読や朗読や、音声や文字や記号(暗号)に対する能力にも差がつく。
無闇矢鱈に情操で片付けずに、人類が何故何百年あるいは何千年と継続しているのか、そういった認識を持たずにこれらを扱うのは危険である。
防音が金銭的に高価なのは当然であるが、健全な精神や経済的な好転を望むなら、防音は国をあげて取り組むべき問題ではなかろうか?
大江健三郎の小説「静かな生活」(1990年)を読んで気になった事。
作中に、些細ではあるが登場人物をバットマンに例えてる。
そのうち男は「バット・マン」のようにレインコートをひるがえすと、横の通りへもの凄い勢いで走り込んだ
問題は、その意味である。
この作品で言われる男は性犯罪者であり、自警的な犯罪者でもなく、正義Aに対する正義Bという立場にもない。
作品において、ただただ純粋に日常に溢れる絶対悪として扱われてる男である。
それなのに、大きな裾をひるがえすという意味だけでバットマンを持ち出して、バットマンの立場や意味を全く無視している。
どうしてこうなったのか、理由が2つ考えられる。
実際には読んでいて腹が立ったというよりも、この程度の扱いでわざわざ他人の作品を持ち出す無頓着さに笑ってしまっただけだが、記録として残しておく。
良かった点
悪かった点
総評として、序中盤は前提を逆手にとった演出は、単純に洗練された映像と、どこまで鋭くやれるか、という挑戦が素晴らしかったが、後半は典型的な道徳をふりかざすだけで、2転3転する展開の割に、見せ場は1転だけで終わって尻すぼみ。基本的には素晴らしいがダークナイトやアンダーザレッドフードなど、当時の衝撃と比較した場合の相対的な感動は低く、アーカムシティの後のアーカムナイトのがっかりに近い。アーカムナイトもThe BATMANも決して駄作ではないが、純粋に旧作を超越した名作ではなく、旧作に劣る部分も目についてしまう、という意味でのがっかり。
自分は中島愛のファンとは言えず、断片でしか彼女を知らないし、熱心に追いかけてもいない。
ただ半分懐かしさの気まぐれで彼女の仕事を覗いてみた。
ポップスもアニソンも、本来は何でもありのジャンルのはずなのに、もはや形骸化して久しく、彼女もタイアップ優先の仕事が多かったので、曲調が退屈だった。
しかし、上記の動画を見て、遊び心と表情の幅が明らかに広がっていて驚いた。
そこで、彼女の最新アルバムを勢いで購入した。
菅野よう子の時と違い、過剰に高音を売りにしないし、他のタイアップのように過剰に元気も売りにしていない。
これが彼女の本性なのか、それとも会得したものなのかはわからない。
しかし、基本的には若向けポップスであるのに、歌の表情もミックスも落ち着いて聞きやすいし、伴奏もリズムや構成や曲調が小編成なりの幅をしっかり広げて飽きられないように丁寧に作られてる。
心に響く感動、というほど神がかった商品ではないが、何でもかんでもエレキとシーケンサで埋めまくった騒音とは明らかに一線を画してる。
誰が企画して指揮したのか知らないが、とても彼女を大事にした素晴らしい仕事だった。
非常食の代名詞となっているカンパン。
しかし、自分にとっては、河豚や鰻や松茸や鯛や焼肉やラーメンよりもありがたいし、うまい。
そもそも、自分は食事に淡白で、可能な限り金と時間をかけたくない。何も食べず、何も飲まずに生きていけるなら、それで構わないという価値観。
かといって、ただ安価なものを食べても体を壊すし、体質的にも材質をごまかすための味付けや油が過剰だと吐いてしまう。
自分は仏教徒ではないが、彼らの食事に関しては同意するし、むしろ望ましいとすら思う。
冬場など、1日中自由に白湯を飲めるなら、それで食生活は幸福だと感じられる。
1日3食を暴飲暴食だとは言わないし思わないが、自分には過剰である。
最近、何を食べても吐いてしまい、色色と試した結果、その中の1つとしてカンパンに落ち着いた。
もともと好きな食べ物ではあったが、それでも日常的に食べる機会はこれまで持ってこなかった。
200gを3日ほどで消費する。流石にそれだけを食べて生きているわけではないが、健康と安価は意外と両立が可能なのではないか、とカンパンを食べてると思う。
良薬は口に苦しというが、健康に良ければ基本的にうまいと感じる筈である。
湯通したモヤシを何の味付けもせずに食べておいしいと感じない人間のほうがおかしいと思う。
それこそ、何につけ感謝しろなどの宗教的な話ではなく、資源の運用という実利の問題として、それほどの食事が必要で、味付けが必要なのだろうか?
最近の研究で、計算問題など頭を使うと1.4倍のカロリー消費となるとあった。しかし、普段からそういう頭の使い方をしてる人たちは、むしろ食事量は比較的に少ない傾向にあるのはどうしてなのだろうか?
iMacの隙間にゴムのブロックを置いた。
何かを書くとき、基本的に机を利用しない。
手持ちで書ける小さなものから、土台が必要なA4以上など、全てクリップボードや画板などで、机と椅子に依存しない状況で書く事が多い。
そこで不便だったのが、パソコン画面を見ないときに紙(楽譜)をパソコン画面の代替にする事が出来なかった事。
そこで、上記のようにゴムブロックを用いて解決した。
少なくともA4横なら問題なく使えた。A4縦を左右2枚は試していない。
仕事柄、音楽CDのためのCD-Rを毎日のように扱う。
そこで思い知った、現在にも残る「再生どころか認識されないCD-Rが存在する」問題。
とある50枚1000円前後CD-Rを利用したところ、20年近く古いCDプレイヤで認識しなかった。
そこで、相場より3倍は高価で、太陽誘電のCD-Rを継いだジャパンディスクを試したら、全く問題なく認識した。
裏面を確認すると、データ箇所の色の濃淡が明らかに違い、視認性にも差がある。それが実際の読み込みに影響があるのかは不明だが。
CDやCD-Rの物体としての技術や存在は既に頭打ちで、今更かつての高価と現在の安価にどれほどの差があるのか、という認識だったが、安定性という意味において、現在でも品質に明らかな差があるのを思い知った。
CD全盛時代を振り返る漫画が話題に…小遣いをはたいて音楽に夢中になった青春の思い出
上記の記事に限らないが、この手の記事は感傷ばかりで、現在でも保存媒体(道具)として明らかに勝ってる点があり利用してる人間の視点が欠けてる。
そこで、自分がサブスクを嫌悪とまで行かなくとも、どうして現在でもCDを音楽の中心の保存媒体(道具)として利用してるか、その理由を書く。
人生にとって重要な道具は、比喩ではなく生死をわけるものであり、人生を決する致命的な要素だと考えている。
その中に布団があり、自分は、やっと生涯に渡り必須の布団を見つけた。それが加重布団(ウェイトブランケット)である。
ここ2年ほど、加重布団(ウェイトブランケット)のYnM 122cm*183cm 7kgを使っていた。
自分にとって水分や酸素くらいに必須の道具であるが、暫く使っていて、自分の身長(175cm)に対して面積が小さいとわかった。
膝を曲げて立てたり、横に転がると、体がこぼれる。
そこで、同系統の商品で大きい物を探して、Marine Moon 150cm*210cm 7kgを購入した。
重量は同じで面積が違うので、どうしても相対的に軽くなり、失敗したかとも思ったが、極端に寝つきが悪くなるほどの悪影響はなく、どう動いても体がはみ出さないのは快適。
場合によっては、また2年後くらいに、同じサイズで10kgなどを買うかも知れないが、そもそも根本的に一般布団と加重布団の差が致命的であり、今後も買うべき物に悩まずにいられるのは、ありがたい。
自分は、文字/絵画/楽譜/雑記、あらゆる事に鉛筆を使う。
しかし、手動鉛筆削器(大人用)の決定版!削り上がりの美しさにうっとり。【文具のとびら】#255【文具王の文房具解説】カール事務器「エンゼル5ロイヤル」にもある通り、仕事/趣味で毎日使える耐久度と利便性と鋭角を兼ね備えた電動の鉛筆削りが、現在は見当たらない。
自分は、ここ1年程度で電動鉛筆削りを3種類ほど試したが、どれも満足する物ではなかった。
そこで、先ほどの動画に行き当たり、思い切って手動の鉛筆削りを購入した。そして、大正解だった。
10年単位で手動は使っていなかったが、かつての鈍く重い感覚は全くなく、鉛筆の鋭角に削れる。商品自体も、重量や硬さなど、日用品としての耐久性は充分に感じられる。
当然、電動に比べたら手軽さはどうしても薄まる。
しかし、現在においてiPhoneなどではなく鉛筆を使う人間は、手作業を義務と快楽の合間と認識してる場合が多いのではなかろうか?
その意味において、この鉛筆削りは作業の一環としての手応えがありつつ、作業の負担となる物理的と精神的な重さが無い。
実は、CARLの電動鉛筆削りも試した事があり、結果は散々だった。だから、この社名は鉛筆削りの候補からは久しく消え失せていた。
だが、先述の動画を見かけて、現在の電動鉛筆削りの問題点を指摘した上で本品を紹介していたので、買ったら正解だった。
同じ会社でも、目的が同じ道具なのに電動と手動でここまで違うものかと驚いた。
少なくとも、どこかの誰かが「これこそ史上最高」と豪語するような電動鉛筆削りが作られない限り、そして、コレが壊れない限りは使い続けられそうである。
人類はどうして音楽を何千年も、へたしたら何万年も継続しているのか。その謎に取り組んだ歌うネアンデルタール 音楽と言語から見るヒトの進化。
それを読んでいたら、モーリス・ラヴェルの晩年について色々と書かれていた。
彼は1937年に死んだが、1933年あたりから脳がおぼつかず、脳内で音楽が鳴ってるが、自身のピアノ演奏(運動)や楽譜(意味記憶や符号の変換)が無理で、かつて自身が可能だった事が不可能になる苛立ちの中で死んだとあった。
自分は、ラヴェルの作品も人物もそれなりには既知だが、彼の晩年を具体的には何も知らず、そんな地獄のような晩年と知って衝撃だった。
そこで、彼の晩年に興味を持ってラヴェル 生涯と作品を読んだ。
結果的に、この本は彼の功績だけを肯定的に書いた本で、彼の晩年の地獄に関して何も知る事が出来なかった。
しかし、彼の手書きスケッチから、楽譜の段階的な完成、作品の段階的な完成を知る事が出来て、目的とは異なるが得られるものが多かった。
特に、彼はとにかく楽譜を書いて、同じ曲で2個も3個も手書きのスケッチや総譜がある。
思いつくままに書いて、そして、書いたものを削除(修正)するのを前提で、とにかく楽譜を書く。
彼の作品の評価は人それぞれ自由だが、彼の楽譜を書く、という行動に関しては手間も時間も惜しまず継続してるのを見習うべきと思い知った。
以下は、ラヴェル 生涯と作品に書いてあった彼の逸話。
序曲シェヘラザードの手書き総譜が2つある。
ベートーヴェンの交響曲8番の旋律とバス(根音)だけを対象にして分析した(根本的に2声の発展として音楽を認識していた?)。
これを人種の問題にして良いのかは不明だが、自分の経験としても思う。
なんとなく、とりあえず、の蓄積で人の人生(時間)を年単位で奪っていく強盗が多すぎる。そして、それを取締る法律が今のところ無い。
Youtubeの広告などにも言えるが、ちゃんと欲しい商品の広告なら、それを見て買うが、生涯1円も出さない商品の広告は違いに無駄である。
人類は時間に対して不可逆であるからこそ、事前の準備や予想や覚悟が不十分な人間の行動に制約、あるいは罰則が必要だと思う。
失敗を許すな、という話ではない。
やった、という言葉が、やった、という行動に全く反映されていない、自己陶酔、自己保身、現実逃避の虚言に甘んじてる人間が多すぎて有害だという話。
いつ死んでも良いように、所持品を処分し始めた。
合計で何十万円も費やした玩具や機材など。
そこで、自分が最後の最後まで残したいものは、(一部の)本と(一部の)楽譜と(一部の)CD、そしてピアノとDAWだけだった。
今更ながら、パソコンは現代において必須の道具であり、使える人間と使えない人間の差は歴然だが、それでも最後に眺めたり手にとるのは、紙や鉛筆の延長にあるものだった。
そういう意味で、自分は、かなり無駄な出費と学習をしてきた。
自分に出来ないからこそ、パソコンを利用して実現性が増えたのは間違いないが、死際の準備を始めて、結局は自分の手だけで構築したものと、デジタル技術を通した結果との差、あるいは不便さ、それを思い知る。
SESSION GUITARIST – ELECTRIC SUNBURST DELUXEはSESSION GUITARIST – ELECTRIC SUNBURSTを拡張した商品である。
そのせいか、後発のPICKED ACOUSTICやPICKED NYLONのように、MelodyモードとPatternモードの区別がなく、あるテンポ設定でテンポが遅すぎると表示されて動かなくなる。
そのテンポは64が下限。上限は無かった。BPM=640や999にしてもエラーは表示されなかった。
SESSION GUITARIST – ELECTRIC SUNBURST DELUXEの全ての音色ではなく、限られた音色だが、上記のテンポ未満(BPM=63)で正常に動かなくなる。
なので、Ritなどの処理はテンポを2倍にして、ノートやリージョンを半分にする必要がある。
現在iMac (21.5-inch, 2017)を使用している。
仕事で思いついた事を全て実現するには、マシンパワーが明らかに不足している。
そこで、Mac Pro(2019)やMac Pro(2012)のユーズド品が新規入荷〜秋葉館を見かけて思ったのは、現在のiMacは、旧型Mac Proの、どの世代以降と同等なのか?
2012年から2021年までのモデルのベンチマーク一覧をまとめた素晴らしい記事があった。
[2012-2021] Macデスクトップ 64台のCPUベンチマークを一覧比較![iMac, iMacPro, MacPro, Mac mini]
曰く、ちょうど調べる契機となった2012年のMacProと現在のiMacがほぼ同等らしい。
自分自身のiMacも、もはや最新機ではないが、iMac 2017とMac Pro 2012、つまり5年で旧型上位と最新下位は同等となる。
そういう認識で問題はなさそう。
Q2nを購入した動機
購入前に、以上の内容をZOOMに問い合わせたら、全て対応可能だと具体的な内容で返答をもらったので、カメラに関して不安は無く購入し、実際に現在、全く問題なく使えている。
観客は映画の音楽を聴いて、どこで泣くか知る。しかし、私はどこで何を感じるか自分で決める。だから音楽など邪魔だ。
ヨーロッパのよくあるエロ映画を軽い気持ちで見ただけだが、割りと思想として納得するものがあった。
ソフト音源 「SPITFIRE CHAMBER STRINGS」 | SONICWIRE
この音源は、ヴェロシティでDivisiを判定し、最大4和音まで可能。では、Divisiを区切る基準値は何か?
それは 128/4=32
つまり…
以上の4つで分けられる。
例えば、ヴェロシティ31と32の差は1しか無いがDivis判定は別。逆に、100と127は27も差があるのに、Divisi判定は同じなので和音にならない。
肝心なのは、AとBの相対差ではなく、上記のヴェロシティ4区分で決まるという事。
本書は、理系女が、理系的な情報や理屈でポリコレより大事な生物原理(バイオロジカルコレクトネス)バイコレを提示して、人類とそれ以外との動物と比較して、人類の価値観の是非を問う。
全4冊。
間違いなく10年に1本の名作。それなのに、自分は岡田斗司夫が紹介するまで、作品を全く知らなかった。
自分は、武富建治は既知で、読者の思考が入る余地のない自己完結の鈴木先生でうんざりした。だから、彼の新作に全く興味を持たなかったが、打ち切り間際でどんな事をやってるかに興味を持って読んだら、先述の通り10年に1本の名作だった。
誰にでもわかる特撮ヒーローモノ、娯楽作品の歴史を愉快に踏襲しながら、等しく日本の歴史や文化や価値観なども盛り込まれ、彼なりの冗談と共に、作品の出来事は恐ろしく悲惨であり、我々読者が思い知るべき事をしっかりと描いてる。
我々が何を失い、何を忘れ、何を怠ったのか。
それが娯楽作品としての派手な描写や魅力的な謎と交錯している。
個人的に、現実の人類史と、それに伴う神話や幻想を1作品としてまとめようとした野心作ベルセルクを継いだのは、本作ではないかと認識している。