2015年10月13日火曜日

【ヴィヴィアン・マイヤーを探して】を見てきた感想

Vivian Maier Photographer | Official website of Vivian Maier | Vivian Maier Portfolios, Prints, Exhibitions, Books and documentary film

Finding Vivian Maier ヴィヴィアン・マイヤーを探して

Finding Vivian Maier -ヴィヴィアン・マイヤーを探して

生産1926年2月1日
死没2009年4月21日
近年では、より明確な病名で判断されたろうか。
しかし、社会性はあった。
男嫌いでありながら、他人に撮らせた水着の写真があり、肌をさらすのに抵抗は無かったようだし、その写真では笑顔であった。

写真撮影は当人が見出したものかと思いきや、フランス南東にあるサン=ボネ=アン=シャンソールで発覚した、カメラは母親と同じ(タイプのスタンド)物。

男嫌いを、単純に虐待された経験があろうという予想をしていた出演者がいたが、その発想自体は間違いないが、無関係でいるからこそ幻想の肥大で過剰反応をする事もある。
いずれが正しいかは不明だが、2を求めるのに1+1以外にも式はある、という事。

使い捨てなどフィルムカメラから20年。
コンデジを持って15年。
デジタル一眼レフを持って10年。
仕事と私事のいずれも写真撮影を継続中であり、だから、幾らかカメラマンの発言も理解できる。
たしかに、写真撮影は、ある瞬間への確信と失敗の繰り返しで、写真自体とは別に、撮影という行動や撮影者という主体に何かを見出すのも、撮影者ならば当然なのだが、それを言葉にすると陳腐になるだけだと思い知った。
結局、言葉というのは無能のためにあり、証明できる有能は実現し続ければ良いのであって、無用なのだろう。
写真は非言語の写真、音楽は非言語の音楽それ自体でしか価値が無いのだから。

上坂すみれ坂本真綾もあるいはああいう末路だったのかと思ったが、両世界大戦の間に生まれて国外と国内の両方で格差を味わった子供と、自他ともに不幸とは言えぬ家庭環境での奔放じゃ、比較にならんか。

監督を含む出演者の自己弁護と自己陶酔に辟易。
Vivianが集めていた新聞紙の一部を雇用主が勝手に処分して、ぶち切れたVivianに対して「(金を出してる)私の新聞よ」と居直る話は最悪だった。
何故なら、Vivianは(口頭)契約前に自身の荷物に関する同意を求めているし、契約後に雇用主もVivianの新聞収集を許容していた。
それなのに、ある段階で雇用主の独断で(当時は明確な認識がなかっただろうが)契約違反をしながら、私達は彼女を温かく迎えたが彼女が変人だった、はないだろう。
いかにも、前提や約束や今後など「時間(人生)」への無理解で生きる無能そのものであった。
監督も、世間に浸透させた事に罪悪感を抱いてると独白したが、Vivian Maierの写真で得た金はどうなっているのだろうか?
どうもネガを買い取った監督に全部がいっているようだが、自身で思うところがあれば、身寄りが無い彼女、乳母である彼女の家賃を肩代わりした子供達に利益の一部を渡すとか、彼女が育ったサン=ボネ=アン=シャンソールに何かで還元するとか、幾らでも考えられる。
今回の監督は、あるいはVivian Maierに会ったが断られたか、断られるのを予想して死ぬのを待っていたのではないか、と本作を見ていて邪推した。

パンフレットの誇張表現も吐き気がする。
奇跡とか伝説とか、それは評価している主体の自己陶酔にすぎない。
少なくとも、契機となった時代ではなく、10年後、100年後にまで継続した時に初めて奇跡とか伝説と後世が前世を評価するものである。

Vivian Maierというのは非常に興味深い人であるし、写真だけでなく、道具や環境などの情報をもっと知りたいと思ったが、この映画に限れば、彼女を利用して彼女とは異なる人こそが前に出る格好となり、非常に不愉快であった。
彼女の賛否は両方あって当然であり、いずれ彼女こそが本題であるのだから。